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金正男の日本内の拠点「丸金ビジネスホテル」の秘密

(月刊「新東亜」2001年10月号)

パチンコ・麻薬・売春・銃器取引の収益金をめぐった朝総聯とやくざ、北朝鮮の黒いコネクションの内幕。金正男と北朝鮮高位層二世らの集結地である、東京郊外周辺の秘密のホテルを中心に広がる驚くべき話!

訳者註

本文はあくまで新東亜誌記事の翻訳です。日本のやくざ組織に関する記述が後半部に出てきますが、訳者Vladはこの記述が正確なものかどうか、まったくわかりません。あくまで原文に即して訳しただけです。このような「情報」が韓国の大手月刊誌に一ヶ月以上前に掲載され、すでに韓国では公然情報となった、という事実のみに着目していただければ幸甚に存じます。

チェ・ヨンジェ(東亜日報新東亜記者)・Vladimir

cyj@donga.com

「新東亜」はさる5月1日〜4日、金正日北朝鮮国防委員長の長男、金正男が日本の成田空港出入国事務所に拘禁されているとき、東京の現地でその内幕を取材し6月号で報道した。7月号には米国ワシントンで、彼と関連した主要懸案を取材し後続記事を報じた。これ以後、金正男事件は韓国民と言論の関心事から忘れられた。

しかし成田空港で金正男の指紋を採取した日本の公安調査庁は調査を止めなかった。彼らの主要関心事は、金正男の日本国内組織だった。実際にさる8月末、公安調査庁は破壊活動防止法を根拠として、在日韓国人300余名の身元を調査し物議をかもした。

「朝日新聞」は金正男が偽造旅券で密入国しようとして摘発された以後、公安調査庁がこのことを根拠として、各区役所に在日韓国人の資料を要請した、と報道した。第二次世界大戦以後、日本当局が破壊活動防止法で捜査活動を展開するのは、オウム真理教事件につづき今回が二度目である。

このような状況で、記者は金正男と連結する日本国内の組織に関する決定的な情報を得た。情報を提供したのはA氏。1990年に日本に密入国し、1999年まで朝総聯とやくざ組織で仕事をした彼は、やくざと朝総聯、北朝鮮の黒いコネクションをさらけ出す。

彼は1997年と98年の二度、金正男に会ったと証言した。取材の過程で1998年12月末、金正男を酒の席に接待して一夜を明かした女性にも会えた。A氏とこの女性は、二人とも「1998年年末に自分たちが見た若者が誰なのかを知らず、さる5月に金正男が国内外の言論に公開されたあとに識別した」と語った。

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日本の東京、新宿駅の南口側に出て、小田急線に乗って1時間ほど走れば大和駅に着く。大和駅の駅舎をで出て5分程度ほど歩いていけば、6階規模のこじんまりとしたホテルがある。1階にパチンコ屋があるこのホテルの名前は丸金ビジネスホテル。屋上に「金」字の大きなネオンサインがあり、誰しもすぐ見つけることができる。

金正男がこのホテルに現れたのは1998年12月27日、日曜日だった。彼が現れる一週間前から、このホテルは隠密だが緻密に、客を迎える準備をした。もちろん金正男が来るという事実を知る人は、ホテルの主人であるK会長ひとりしかいなかった。

1998年12月27日、日曜日

K会長はまず、このホテル1階にあるパチンコマシンのキーを調節した。パチンコは、平日には機械内部のキーを解き、客が金を取るようにする。パチンコは大部分をやくざが管理するのだが、組織員に金を上納するときに使う方法が、まさにキーを解くものだ。組織員が訪問すれば、彼が座る特定の機械のキーを解除して、金を受け取れるようにする方式だ。

だが、客が集まる週末や資金が必要なときは、無条件にキーをかける。これを「締める」と言う。K会長は、その客が来る一週間前から、従業員に無条件「締めろ」と指示した。

K会長はまた、ホテルのあらゆるカーベットを洗濯し、壁を新しく左官工事せよと指示した。その客が現れる三日前はついに「今週末はパチンコとホテルの営業をしない」と発表した。パチンコは元来、週の中頃には開放し週末にかき集める形態で営業するため、職員たちは首をかしげた。金正男が現れる一日前の土曜日、K会長は個人秘書A氏(事件を崔チョロ記者に情報提供した取材源)を呼び、「明日はするべきことが多いから時間を空けておくように」と言った。日曜日の朝、K会長は起きるやいなや、A氏に横浜に行こうと言った。

横浜は、ソウルの城北洞のように大邸宅が多い場所で、K会長の別荘があり、朝総聯の安家が多いところだ。彼は普段、この別荘で韓徳銖・前朝総聯議長(2001年死亡)ら朝総聯の主要幹部たちと会合を開いた。

この日、K会長は最上の洋服を着て、頭に油を塗っていた。K会長の目的地は別荘でなく、この場所にある朝総聯の安家であった。A氏がK会長の車を運転して安家に到着すると、塀の外にはベンツやプレジデントなど高級乗用車10余台が集まっていた。K会長は家の中へ入り、A氏は外で待った。

しばらくして、20余名の人々が右楼からどっと出てきた。その群れの中に黒いムスタングを着た若者(金正男)が眼に入ってきた。高齢の朝総聯幹部たちが、その若者に屈身する姿から、一目で彼が北朝鮮の実力者であるという事実を察することができた。

A氏はその若者を以前にも一度見た記憶があった。1年6ケ月前の1997年5月頃、その時もK会長の車を運転してここに来たのだが、遠くからこの髪の短い若者を見たことであった。当時も、この若者は警護員2名を連れていたのだが、今日見たのとまったく同じ人物だった。

髪の短い若者は、待機していた黒いベンツ560に乗った。この乗用車を中間に置き、前後に10余台の乗用車が群がって動いた。目的地はK会長の丸金ホテル。

A氏とK会長は後尾の部分でベンツ560の後についていった。丸金に到着した時間は午後1時。鋭い寒さの冬の天気であった。若者と朝総聯幹部一行20余名は、このホテル2階の焼き肉店で鮗の刺身の食事をした後、何の会議があるのか、分厚い書類封筒を持って上の階に消えた。

鮗(このしろ)の刺身を好む金正男

この日の夕方7時ごろ、K会長は丸金ホテル5階にあるVIPルームにA氏を呼んだ。VIPルームには昼に見た、ムスタングを着た金正男とK会長、朝総聯中央区金ジョンミン会長(仮名・65才前後)、60〜70才ぐらいの朝総聯幹部1人、黒い洋服を着た男が2人(やくざと推定)、日本の芸者4人とK会長の女秘書、李ウンギョン(仮名・当時25才)が酒を飲んでいた。

門の外には、昼に見た金正男の警護員2人がうろついていた。酒のテーブル上には、コニャック「ヘネシー」と鮗の刺身、唐揚げ(鶏の丸焼き天ぷら)がすっきりと並べられていた。金正男は鮗の刺身を非常に好むらしかった。昼にも鮗の刺身を食べたのに、夕方の酒のテーブルにも鮗の刺身が並んでいた。李ウンギョン(仮名・28)は酒をあまり飲まないのだが、数杯飲んだのか、顔が赤くなっていた。

A氏が入ると、K会長は「統一のイルクンで、丸金の人材です」と一行に紹介した。A氏は酒の席に座った人々を回って挨拶した。金正男は「私が誰だかよくわからないでしょう。まもなくわかります。祖国統一は速やかになされるべきなのに…」と語った。歌を歌う順番が回って来た。金正男は日本の歌手、長淵剛の歌だけ三、四曲を歌ったのだが、日本語の抑揚がとても上手だった。

酒に弱いA氏は10〜11時の間に宿舎へ降りてきた。翌朝、彼は李ウンギョンに会い、その後の状況を質問した。李ウンギョンは「明け方2時を過ぎても飲んでいた。その日本お嬢さんらは老人たちと寝た」と話した。李ウンギョンは笑いながら「私はその若い友人と、行くところまで行った」と言いながら、金正男の身体の特性を説明した(詳細な内容は、この記事の後の李ウンギョンへのインタビューを参照)。推測が至ったA氏は、それ以上はしつこく尋ねなかった。

ここまでの内容は、日本の東京近郊、大和市の丸金ビジネスホテルで朝総聯とやくざ組織の下部仕事をして、1997年5月と1998年12月、金正男と二回会ったA氏の証言を土台として、当時の状況を再構成したものである。彼は当時の状況をノートにぎっしりと記録していたので、自然に細かい部分までを記憶していた。

さる5月、日本捜査当局は金正男が「パン・シオン」という中国人名で2000年10月と12月、二度日本に密入国したと発表した。A氏の証言どおりならば、金正男はそれ以前にも日本を自分の家のように出入りしていたことがわかる。

だが、問題は金正男でなく、朝総聯とやくざの黒いコネクションと彼らが行う犯罪、またこのようにして生じる収益が北朝鮮に送金される構造だ。金正男はむしろこの連結構造に、ちょっとだけ登場した人物でもある。

日本を行き来する金正男

この丸金ホテルのK会長は、金正男と朝総聯、やくざの黒いコネクションを理解するのに核心的な人物だ。朝総聯の所属である彼は、やくざと直接の関係を結んだ組織員でもある。

彼は1924年、済州城山浦で出生し、1999年10月に死亡した。詳細な学歴はわからないが、解放前後に日本へ密航し、炭鉱と鉄工所で仕事をしたことが伝えられた。1960年代後半、東京の中野駅近くに焼き肉店である「アリラン」を開業し、財を築きはじめた。開業3年にして5階建ての建物を所有するようになった彼は、1970年代後半に横浜近郊の川崎市四谷附近に、400坪あまりの規模の焼き肉店「鴨緑江」を開業した。現在はK会長の本妻である李某氏が「鴨緑江」と、この食堂が入っている7階建ての建物を所有している。K会長はまた1990年ごろ、問題の丸金ビジネスホテルを開業した。

K会長はこのホテルに生活しながら、1階にあるパチンコと2階の焼肉店、居酒屋とホテルを直接運営した。彼は1990年代中盤からは川崎市の焼肉店「鴨緑江」附近に、個人用賃貸アパート5〜6棟を所有しながら、建築および不動産賃貸業に事業をよりいっそう拡張した。

K会長は妻の李某(73才)との間に3男2女を持った。このうち、長男である金一男(仮名・51才)は金日成総合大学を卒業して、2000年現在は金日成総合大学哲学科教授として在職中だ。次男金二男(仮名・48才)も金日成総合大学を卒業して、セメント工場の工場長を経て2000年現在、金日成総合大学教授でとして在職中なのだが、専攻科目は明確ではない。

三人目の息子、金三男(仮名・44才)は東京近郊の大和市に住んでおり、朝総連系大学である朝鮮大学校を卒業した。金三男は2年ほど初級学校の教職にいたが、現在は丸金ホテルとパチンコ、焼き肉店「鴨緑江」を母親とともに経営している。彼はまた、父親であるK会長とともに1年に一度ほど北朝鮮を往来した。K会長は生前に、一年平均で五回程度北朝鮮を訪問した。金三男の妻、崔ソクジャ(仮名・42才)は、前朝総聯横浜支部長崔ギルス(仮名)の娘で、丸金ホテルの全般的な資金を管理した。

K会長は妻の李某氏以外にも、他の女性との間の息子もいる。大和市に住む金四男(仮名・37才)も、一抹の精神異常症状があり、精神病院で療養治療を受けたりしていた。

K会長は、金日成と金正日をそのまま真似る人物だった。いまは撤去されてもうなくなったが、彼が死亡する前までは、このホテルの2階には1000万円をかけて作った、K会長の銅像(高さ2m)があった。また3階のホテルのフロントのちょうどそばには、横5m、縦3m大きさの、金日成金正日父子と自身が一緒にいる写真を掛ける。この写真も現在は取りかえられてしまっている。大和市と東京近郊に、不動産とさまざまなホテルを所有している彼が、生前ことあるごとに口にする話が「祖国統一になれば、ソウルに自分のホテルを建てることが夢」だったという。

朝総聯の財力家、K会長

K会長は、亡くなった韓徳銖前朝総聯議長と密接な関係であった。韓徳銖議長は1990年、丸金ホテル竣工式に参与し、毎年北朝鮮に行くその都度、かならずK会長を同伴した。K会長もK会長で、韓徳銖議長の朝総聯行事にもれなく参加した。

汎民連海外本部会員でもあった彼は、北側が毎年8・15祝典時に板門店でデモを繰り広げるとき、主導的な役割を果たした。また1989年、平壌で開かれた13次世界青年学生祝典当時にも、この大会に参加し、林秀卿氏と一緒に写真を撮ることもあった。彼は主体思想を猛烈に信奉し、北朝鮮当局から英雄称号を授かる。

K会長は高慢不遜で、朝総聯内部での評判はそれほどよくなかったことが伝えられている。しかし金日成総合大学の教授に在職する二人の息子の影響力と、強大な資金力を土台でとして、朝総聯幹部の肩書をいくつも持っていた。金剛山歌劇団(日本の朝鮮大学校の学生と朝総聯組織員で構成され、毎年一度、朝総聯各支部の巡演を行う)の各支部公演後援会場、および推進委員長、朝総聯商工会議所大和支部委員長、朝総聯商工会議所監査などを歴任した。汎民連海外本部委員の肩書も持っていたK会長は、金日成、金正日父子の誕生日と9・9節行事、および北朝鮮の主要行事にもれなく参加した。

丸金ホテルと北朝鮮高位層二世たち

このように朝総聯幹部として威勢の荒かったK会長は、私生活と関連しても諸々の話が多い。彼は一日も欠かさず夕方にうなぎを食べ、「うなぎ」という仇名があった。このようにうなぎを食べる理由は、他でもなく精力補強のため。それだけ精力が絶倫だったとのことだ。

彼は日本国内の韓国女性たちの大部分が、不法滞留者という事実を巧妙に利用したという。ホテルの社長秘書職(実際には家政婦の役割)という名目で、採用基準を25〜30才に限定した。またできるだけ未婚でなければならず、既婚者の場合、日本の現地に夫がいてはならない、と釘を打つ。また皮膚の色合いが軟らかいべきだ、ということなどを強調した。このような方法で女性を採用し、周辺に「勤務」させた、ということだ。

離婚女性、崔○○さん(32才。釜山出身、前朝興銀行職員)は1997年に日本に来て、新宿近くの新大久保の食堂で仕事をしているとき、1998年新宿近郊にある、高田馬場の韓国人純福音教会留学生宣教センターの紹介で、丸金ホテルのフロントに就職した。彼女は身長が高く美人であり、日本語に堪能だという理由でK会長の個人秘書になった。K会長は金銭の提供、解雇脅迫などの方法で寝床を要求した。耐えられず崔さんが強力に抗議すると、まさに翌日崔氏を川崎市にある自分の食堂「鴨緑江」で食堂の仕事をさせるようした。

K会長は、金正男と一夜を明かした韓国女性、李ウンギョン(仮名)とも深い関係だったことが伝えられている。このとき、K会長は箱根温泉の付近にある、個人賃貸アパートの一部を李さんに贈与することを約束したという。

K会長が経営した丸金ホテルは、萬景峰号に乗って日本の新潟港に入国した、北朝鮮高位層二世たちが集結する拠点だった。彼らはいったん新潟港におりると、新潟第一ホテルで簡単な教育を受ける。そのつぎに東京近郊の丸金ホテルに来て泊まり、日本のあちこちに散在するものだ。

実際に1998年9月中旬、北送在日同胞(朝総聯幹部および組織員)と、日本に縁故や家族関係がある北朝鮮最高位層二世(知り合い訪問の条件である三ヶ月滞留ビザだったが、彼らの実際目的は外貨稼ぎだ。北朝鮮では最高位層の家族でなければ海外旅行は不可能)グループ300余名が、朝10時に新潟第一ホテルで教育を受けたのち、各地域に散在した。

このとき、K会長の孫、金グクソン(仮名)を含む、崔ヨンリョル(27才前後。平壌市に居住。労働党幹部の子弟という)、イム・ギボク(27才前後。平壌市に居住。北朝鮮軍部大佐級子弟という)、チョ・チョル(30才前後。平壌市に居住。父親は労働党高位幹部、父親の長兄が北朝鮮軍部実勢という)などは、一行20余名とともに新幹線で東京に到着し、丸金ホテルに宿泊した。その後、友人関係である金グクソンとイム・ギボクは丸金ホテルに残り、チョ・チョルたちは他に移動した。金グクソンとイム・ギボクはその後、ホテルの従業員宿舎で生活した。

朝総聯とやくざ

こうして入国した300余名は、日本出国の一日前である1999年1月10日頃、新潟港に再び集まった。彼らはまた、総聯僑胞と最高位層二世グループに分れて教育を受ける。K会長の孫、金グクソンを含む一部は第一ホテルに、一部は他のホテルに分散して集合した。一定時間の教育が終わったのち、団体で乗船し、北朝鮮の元山港に戻っていった。ホテルと集合場所では、個人行動は絶対に許されなかった。

K会長は日本の暴力組織、やくざと連結した人物だった。日本やくざの二大山脈は山口組と住吉会であるが、K会長が関係した組織は住吉会であった。組織員がもっとも多い山口組は、大阪および山口県(岡山、広島附近)から立ち上がり、組織員は概略3万名から3万5000人と推算される。

山口組は、日本全国に80余の地方系列組織と組単位で編成されている。この組織は、一ケ月に一度の形で東京、新宿の歌舞伎町と大阪、神戸などで、組長級以上の幹部らが会見している。

朝総聯と直接関連した住吉会は、東京の新宿で誕生した。組織員数は概略1万6000〜1万7000人と把握されている。この組織は山口系列から脱退した組織員と、地方の小規模やくざ組織(マツバ会、イナガワ、マスイ、マスモトら)を統合して成長した。

会長であるスミヨシ(65才前後)部下に、ハヤシ(58才前後)、マスイ(60才前後)、マスモト(60才前後)らの組長級幹部で構成されている。住吉会は東京の新宿歌舞伎町、上野、横浜、板橋、浅草など、東京地域3分の1以上を掌握している。特に新宿歌舞伎町の場合、韓国人関連酒場の80%以上は住吉会の勢力下にある。

彼らは韓国人など外国人酒場接待婦を相手に、旅券を担保に行う私債業、「バンス(先払い)」を条件とする売春業などを行う。また酒場に酒を供給し、外国人接待婦(ショーガール)を率いて、売春業(別名ソープランド)を営業することもある。この住吉会は、在日同胞二世、三世をはじめとして、韓国の暴力組織(釜山七成派、全州ワールドカップ派、釜山二十一世紀派)などが下部組織員として活動している。

住吉会は、各地域に系列社格である支会を持っている。住吉会の支会のなかでの先頭走者は、東京板橋地域を舞台とし、ハヤシ(58才)が率いる林組で、私債業および不動産賃貸業など、各種の利権に介入している。特にゴルフ場建設と関連した利権と麻薬取引、酒類の供給、接待婦供給などで準備した堅固な資金力を土台として、1990年代以後、新興勢力として急成長している。

林組は組織員の80%程度が朝鮮人で、相当数が朝総聯組織の幹部と直・間接的に関連している。

林組の中間ボス級に長谷川(40才前後。韓国名は明らかになっていない)という人物がいる。彼は朝総聯所属の在日同胞二世で、K会長の影のような存在であった。彼は金正男が1997年と1998年、K会長の周囲に現れた時も、金正男のまさに傍らに沿った。

住吉会林組

林組は特に住吉系列組織の麻薬取引の60%以上を占めている。また住吉会は1990年代後半に入ると、フィリピンなど東南アジアを舞台として銃器類の密輸入など武器取引もしている。

日本は5月初めに「黄金週間」と呼ばれる一週間の休暇シーズンがある。この時林組織の中間ボス級幹部たちは、団結を試みるという名分のもと、タイとフィリピンなどの地を旅行する。この休暇期間のあいだ、組織員たちは林会長の指針のもと、フィリピン・マニラ近郊の銃器密売業者らと会見する。

またタイなどの麻薬取引業者らと取引きをして帰ってくる場合もある。実際にA氏は「1998年8月20日頃、長谷川と恋人のミン・ギョンスクがフィリピン旅行から帰ってきた後、長谷川の事務室でフィリピンから購入したものと思われる、38口径小型拳銃と実弾(弾倉含む)を組織員に伝達するのを見た」と語った。

この林組が麻薬を密輸し販売する場所は、神奈川県の横須賀港だ。東京から直通電車で約1時間30分の道であるここには、米軍基地がある。米軍を相手にする売春業者が並んでいたこの港は、やくざ組織員らの麻薬取引がありふれていることで有名だ。特にここでは林組織員たちの韓国人の恋人(大部分が酒場接待婦)が多く、フィリピンなど東南アジア女性たちが、米軍を相手に売春と麻薬取引をすることが知られている。

実際に、週末には林組織の長谷川をはじめとする幹部級組織員たちが、名古屋近郊にある林の別荘で過ごした後、月曜日か火曜日くらいに横須賀港を訪問する。その過程で麻薬取引が頻繁になされることが伝えられた。K会長の孫、金グクソンも、この横須賀港を自主訪問した。

住吉会の林組は、東京で仕事をする韓国人酒場接待婦を相手に、高利貸金業と人身売買のような悪質犯罪も行っている。先に言及した朝総聯組織員、長谷川は恋人ミン・ギョンスク(38才・仮名)が運営する「ミン企画」を通じ、韓国人酒場女性接待婦の旅券を担保として金を貸す私債業を行っている。この私債業の金脈は林組の資金。その手法が悪質なのだが、たとえば100万円を貸す場合、一ケ月先の利子20万円を控除した、80万円をあたえる方式だ。彼らは東京新宿の歌舞伎町を中心として活動しており、新宿曙橋駅附近にあるデニーズレストランがミン・ギョンスクの拠点だ。

長谷川とミン・ギョンスクは非常に残酷な人物と知られている。たとえば韓国人酒場接待婦たちが、約束した日にお金を返されない場合、「先払い」条件を前面に押し出して、他地域の売春業者に売り払う。これさえ不如意な場合、韓国内の家族から代わりにお金を出させる。

このようなことは林組織内に別に構成された「真相処理班」が引き受けて、韓国人女性接待婦を暴行し、やくざ事務室に監禁して性暴行を加えることもある。これらすべてのことの中心に朝総聯組織員、長谷川とミン・ギョンスクがおり、背後にはK会長と親密関係が厚い林組長がいる。

林組は偽造旅券も取扱うことが伝えられた。これを担当する人は朝総聯中央区のイム・ヒョンス(仮名)会長だ。彼は丸金ホテルの広報パンフレットと、パチンコ宣伝広告広報物を製作する印刷業専門家だ。偽造旅券が流通する経路はこうだ。長谷川の恋人、ミン・ギョンスクが依頼人から写真と代金の一部(取引金額の50%、1件あたりの金額は概略150万円)を受けて、書類を長谷川に渡せば、長谷川はK会長あるいはK会長の息子、金三男を通じて直ちにイム・ヒョンス会長に書類を伝達する。

林組織が取扱う麻薬と偽造旅券(ニセ札を含む)、私債業、パチンコなどの収益金は、K会長と長谷川がマネーローンダリングの過程を経て、北朝鮮に送ることが知られている。またどんな形態でも、その資金の一部は金正男にも伝達された可能性が大きい。偽造旅券を作るイム・ヒョンスの背後にはK会長があり、長谷川の背後には林組長がいるためだ。

やくざ部分は除外しても明らかなことは、死亡したK会長が自分の個人所得のうち、相当な部分を北朝鮮に送ったという事実だ。彼は死亡する直前までパチンコ、ホテル、焼肉店2ケ所、団らん酒屋、不動産賃貸業などで、従業員給与を控除しても、概略で毎月2億円(22億ウォンほど)程度を稼いだ。

K会長はこの資金を「朝銀信用金庫」と横浜銀行大和支店、住友銀行大和支店を通じて管理した。1998年12月末、金正男が訪問した当時、彼は4億円を横浜銀行と朝銀信用金庫から引き出した。

もちろんこの資金が金正男にすべて伝達されたかどうかは確認されなかった。彼は毎年、分期別に(1年に3回程度)3億円から4億円程度を北朝鮮へ送金したことが伝えられた。この事実はK会長の三人目の息子である金三男がA氏に伝えた内容で、資金の支出内訳書類は、金三男の妻、崔スクジャ(仮名)が管理している。

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