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「悪の執行部」歴代保衛部長たちの悲惨な話

(月刊「朝鮮」2002年10月号)

訳者註

尹大日氏は北朝鮮の国家安全保衛部(韓国の国家情報院に該当)指導員出身の脱北者である。国家安全保衛部は北朝鮮体制を守る情報・捜査機関であるため、彼が北朝鮮で見て聞いて感じた体験は、一般の脱北者とは異なる価値をもつ。彼はある時期、金正日の命令の下で北朝鮮住民を監視、統制、抑圧する加害者の側に立って生活したがゆえに、北朝鮮指導層の心理状態、事件思考などに接することができる窓口の役割をしている。尹大日氏は自らの金正日政権での体験記を「悪の執行部・国家安全保衛部の内幕」(月刊朝鮮社)という題名で出刊した。核心部分を選んで紹介する。

尹大日(脱北者・前国家安全保衛部指導員)・Vladimir

在北家族を心配しながらも暴露の決心

私は以前、米国ディフェンスフォーラム財団のショルティ(訳注:Suzanne Scholte)会長の招請で米国に行ってきた。生まれて初めて米国に行くこととなった私の心情は、出発する前から複雑で息苦しかった。その理由は、私が米国に行って北朝鮮の実像と住民たちの生活、そして統一に対する北朝鮮の人々の考えを、どのようにすれば実感を込めて米国と国際社会に報せることができるか、という問題のためであった。

次に心配された問題は、私が北朝鮮の実像を知らせて世間に告発すれば、ただでさえ残っている兄弟たちにさらなる被害が加えられるだろう、という申し訳ない考えだった。しかし私は、家族よりも2000万名の北朝鮮住民たちのために、犠牲を覚悟して北朝鮮の人権問題の実像を事実のとおりに伝えることこそが、私がすべきことだと結論を下し、米国に行ってもそのとおりにしたのだ。

私が韓国にやってきた後、1999年4月9日の夜中に北朝鮮当局は、愛する私の長男、チョルジュンと母、そして弟と不分別な幼い甥を含む8名を捕まえ、政治犯収容所に連行した。当時、咸鏡北道茂山郡党委員会の宣伝部長であった兄には、私の韓国行きの直接的な責任をかぶせて処刑した。

いま、北朝鮮にいる10ヶ所以上の政治犯収容所には、私の家族のみならず20余万名の住民たちが閉じ込められており、彼らは獣以下の生活を送っている。彼らが政治犯収容所内でどのように生きているのかは、眼で直接見ないかぎり誰も信じないだろう。

私はこの文を書き始めながら、他の人たちのように私の自伝的な話や面白い話を編集して書こうとは思わなかった。ましてやこの本を出版してお金を儲けようとは考えもしなかった。ただし、韓国で生きてこられた方たちと育っていく後代の人々に、北朝鮮住民たちが祖国が分断されて50年を越える年月を生きてきた社会が、どんな社会なのかを事実ありのままに伝えたいだけだ。あわせて離散と民族分断、理念の対決がわれわれ民族にどれほど途方もない災難をもたらしたのかを知らせたかったのだ。

階級闘争の刃

北朝鮮の国家安全保衛部(以下保衛部と表記)は、北朝鮮最大の情報機関であり、住民たちに対する監視と反体制勢力、外部から侵入する間諜を索出し北朝鮮の世襲体制を維持させる一つの独裁機構だ。

南北の対決で韓国が主導権を掌握できる道は、北朝鮮社会の多様な情報の確保と、これを南北関係に適切かつ果敢に応用するところにあると考える。南北頂上会談以後の南北関係を分析してみると、民主化されてあらゆるものが一般社会に公開される韓国とは異なり、閉鎖社会の北朝鮮に関する情報を共有するのは非常に難しいということを、われわれすべてが痛感していると思う。

われわれがせっかく造成された南北和解の雰囲気を害さないかどうか憂慮しためらう間、北朝鮮は私たちの弱点を利用して韓国に対する圧迫と諜報収集をより一層強化している。最近では対話と交渉を一方的に中断させて、南北関係を対決の原点へと戻そうとしているのだ。

北朝鮮は、1950年代初めから保衛部を権力維持の突撃隊とみなしながら『国家保衛部は、党が平和統一のスローガンを高く上げれば上げるほど階級闘争をより一層強化しなければならない。階級的員数に対するささいな幻想も容認してはならない』としながら敵対的観念を始終一貫として鼓吹している。

北朝鮮最大の独裁機構である保衛部は、1945年11月19日に金日成が平安南道南浦市を訪れ、保安幹部訓練所を現地指導したことから、この日を保衛部の創設日と記念している。光復を迎え親日派と民族反逆者の粛清、社会秩序維持の目的で組織された北朝鮮内の保安幹部訓練所は、後に北朝鮮の司法・公安機関、すなわち裁判所、検察所、人民保安省、保衛部の前身となった。

金日成は1945年11月19日、南浦市保安幹部訓練所を現地視察しながら『保安所員らは日帝の走拘と地主、資本家階級に反対して闘争する労働階級の先鋒隊として、階級的員数とは微塵も妥協せず、堅固に闘争しなければならない。そのために照準練習を多く行い、射撃も上達しなければならない』と訓練生たちを激励した。

光復後、北朝鮮で最初に組織された保安機関は司法、検察、治安維持などの業務を直接担当し処理したが、1946年頃から司法、検察、治安維持を担当した保安所は分離され独自の事業を始めた。北朝鮮の保衛部、人民保安省、検察所、裁判所のすべてが11月19日を創立日として記念しており、この日を前後して金正日に忠誠を確かめる宣誓を定例化している。

保衛部は親日派と反動勢力を粛清、鎮圧して治安を維持するのを主な任務とした。1948年2月8日の人民軍創設直後、内務省(保安省の後身)情報局に名前を変え、国内の反動勢力の鎮圧および体制安定の企図に服務した。6・25戦争当時には、後方から浸透する間諜たちと武装ゲリラを索出、掃討に全力を尽くし、韓国に同調する反動団体らと人物を拘束、処刑する事業を進行した。

6・25戦争終結後、1961年までは内務省に所属する情報局に名前を変えた。おもな目的は間諜の索出と反動団体加担者、政敵を検挙、拘束、処刑であり、その過程をつうじて北朝鮮体制の安定を維持する基本独裁手段として落ち着くようになった。

保衛部の最重要事業は金日成父子の身辺保障

北朝鮮の代表的な情報・捜査機関は保衛部だ。この部署の特徴は、他の国の情報機関とは異なり、北朝鮮の唯一の情報機関ながらも海外諜報収集や対南工作よりは、北朝鮮の世襲体制の保護を主な任務としていることだ。金日成父子の世襲体制のために存在する情報機関というべきである。

保衛部は、1980年代末頃までは海外諜報収集や対南工作には直接の関連を持たず、内部住民たちを事業対象としていており、国内にやってくる外国人を監視する任務だけを担当していた。だがソ連と東欧圏社会主義国の崩壊、1992年8月における中国と韓国の修交直後、海外をつうじて韓国やその他の国の諜報収集も担当せよ、との金正日の指示以後は順次、対南工作と海外諜報工作を拡大している状況である。

保衛部が進行する最も重要な事業は、金父子の身辺を最上の水準で安全に保障することだ。つぎに金父子の一党独裁世襲体制を非難したり、国家主権と社会主義制度に反対、反逆する「反革命犯罪者」の索出および逮捕である。換言すれば、政治的な性格を帯びる反体制事件に対する独裁を実施するものだ。

また▲海外に駐在する大使館職員たちと、貿易・合弁企業で外国に常駐する北朝鮮住民たちに対する監視▲海外を通じて各国の諜報収集▲海外に対南工作拠点を用意、工作の推進、北への拉致、自主的な北朝鮮入国を誘導▲海外居住僑胞らと韓国の企業人たちからの財政的な支援を誘導し、活動資金を用意するものだ。

現在、保衛部の対外反探偵局の要員360余名のうち、300余名は海外に出て活動しており、海外公館の北朝鮮住民たちを監視する要員を除外した残りの50%程度は、専門的な諜報収集と対南工作に従事している。

対外反探偵局は中国、ロシアの情報機関が米国、韓国の情報機関と結集して北朝鮮の内部状況を通報し情報交流を強化しているのに対処して、海外を通じた各国の情報機関に対する諜報収集に多くの力量を投与している。経済情報の収集と、日本を経由して韓国に拠点を用意する工作も隠密に推進している。

脱北者の暴露で収容所を改編

保衛部の要員たちは、自分の区域に居住する人々の身上はもちろん、各家庭にさじや箸がいくつあるのかをすべて知っているというぐらい、住民たちをもれなく把握している。保衛部は金日成の指示により、1960年代後半(1967〜1968年)に当時の内閣副首相であった朴金x、前女性同盟委員長・朴正愛、武力相金チャンボンら「反党反革命分派分子」たちを粛清した後、1970年までに北朝鮮の全住民を核心・動揺・敵対の3つの階層に分類し、険悪な雰囲気を造成した。

この時期、保衛部は金日成の政敵らと敵対階層6000余名を処刑し、7万余名の政治犯を集団収容所に移住させて管理しはじめた。1960年代初期に2ヶ所ほどの政治犯管理所があったのだが、1990年代初めには20ヶ所以上に拡張された。

その後、安赫・姜哲煥など咸南燿徳政治犯収容所体験者らが北朝鮮を脱出して韓国に到着した後、政治犯収容所の実像を公開し、国際人権団体の北朝鮮内での人権実態調査の要求が強まると、咸鏡北道の穏城・鏡城などにあった10ヶ所以上の政治犯管理所を縮小し、現在は10余ヶ所を維持しているものの、このときただ一名の政治犯さえ解放されることはなかった。

現在、保衛部が管理する政治犯収容所に収容された政治犯は約20余万名に達しているが、彼らは北朝鮮体制が崩壊にならないかぎり、生きて出てくることはないのだ。

北朝鮮は社会の流れと民心に圧力を加え、幹部等と住民たち、動揺する階層が体制に対抗できなくするという目的で、1995年から犯罪者に対する公開銃殺を全国随所で実行している。1995〜1998年まで、中央と道・市、国境地域の郡では、一年平均で10余名の犯罪者を公開処刑した。

死刑を執行する安全員たちは、死刑囚が亡くなったことを確認した後、布で死体をぐるぐる巻きにしてトラックに積み、誰も知らない山の谷間に埋葬して家族に死体を返さなかった。 死刑囚の家族たちは後禍を恐れ、あえて遺体の返還を要求することも、またさがそうと努力することもできないのが実情だ。

歴代保衛部長たちの惨めな話

保衛部は、以前は国家政治保衛部と呼ばれていたのだが、初代国家政治保衛部長でには当時、金日成の身辺警護を専門とした護衛総局副局長金ビョンハが任命された。金日成は国家政治保衛部に絶対的な権限を附与した。

金日成は『国家政治保衛部は党の一つの部署であり、私に直接服従する』とした。このときから保衛部は、表面上は北朝鮮の労働党中央委員会の指示を受けるものとされていたのだが、実際には金日成と金正日の直接の指示を受けてあらゆる事業を行ってきているのだ。

北朝鮮は1973年から国家政治保衛部を通じて数多くの「語反動(マル反動)」(言葉で北朝鮮体制や金日成・金正日を批判する人を意味する語-編集者註)たちを検挙、処刑することによって、北朝鮮住民たち中のに独裁に対する恐怖感を造成し反発できないようにした。このような独裁が行き過ぎたと意識してか、1980年初めの当時の国家政治保衛部長・金ビョンハを、政治犯かどうか曖昧な群衆を処刑しては党と大衆を離脱させた、という理由で粛清したのだ。

金ビョンハは金日成の体制を強固にし、世襲体制の構図を完成するのに大きく寄与したのだが、結局は政治の篭絡物に過ぎず、また金日成に不要な存在となったという事実を知り、自分の執務室にて拳銃自殺することで、人生をしめくくったのだ。

第二代国家保衛部長には、社会安全部長であった李ジンスが1982年頃に任命された。以後、国家保衛部は金正日が直接掌握し、随時事業情形(どのような仕事になりつつあるかの状態)を聴取し指示を与えている。

国家保衛部が金正日にファックスで事業情形を報告する日は毎週木曜日であり、国家保衛部長はその他に重要な懸案や緊急の問題が提起されれば、任意の時間に金正日を訪問した。金正日が地方を現地指導する際にもつねに同行した。李ジンスは1987年8月、黄海南道○○郡の安全保衛部事業実態を把握するため現地に向かい、郡安全保衛部の寝室で寝ているとき、ガス中毒で死亡した。

彼が死亡した後、金正日は彼に共和国英雄称号を授け、死体に英雄メダルを付けて授与し、葬儀を国家葬で執り行うことを指示し、TVと放送、新聞を通じて彼の忠誠心を大々的に宣伝した。北朝鮮は李ジンスの死亡を契機として、初めて公式的に北朝鮮住民たちに国家保衛部の存在を知らせたのだ。

李ジンスの死亡後、金正日は現在まで保衛部長を任命せず、第1部部長が保衛部の全般事業を掌握指導するようにし、後で保衛部の実際的な権限を行使している。

李ジンス死亡後、国家保衛部の実勢である第1部部長に任命された人物は当時、国家保衛部副部長だった金英龍だ。彼は1942年平壌出身で、金正日とは金日成総合大学時代の同窓であったため、格別の信任を受けていた。

1989年7月に平壌で開かれた第13次世界青年学生祝典直後、平壌祝典の過程にあった重要な懸案に対して金正日に適時報告しなかったという理由から左遷され、咸鏡北道の保衛部長に左遷されたものの、1年8ヶ月後の1991年はじめ、金正日の招請を受けて再び国家保衛部第1部部長に任命された。

金英龍は金正日の格別の信任により、1992年4月には人民軍将星の軍事称号を、その年の12月には党中央委員会委員となり、1997年4月には人民軍大将の軍事称号を授与される。

このように信任していた第1部部長金英龍が、重大な事件について報告せず、自分と距離を置くと考えるようになったため、金正日の不満は並大抵でなかった。保衛部を検閲した成員は、了解状況(把握された状況)を毎日、金正日に報告した。この過程で、出所不明の韓国の資金が中国を通じて保衛部幹部たちにまで行き渡ったが、保衛部はこのような事実を金正日に全く報告しなかった、という事実を明るみにした。

金英龍の事務室の書類入れには、反体制事件と関連し処理の可否を待つ50余件の事件が彼の決裁を待っていたのだが、どのような理由なのか、一件も決裁されていない状態だったという。

この事実の報告を受けた金正日の指示で、検閲成員は1998年4月5日午前9時から保衛部庁舎で集中指導検閲総和を進行し、金英龍と彼に追従する副部長、局長に反党・反革命分派分子の烙印を押した。政治的肉体的生命も助かる見込がないことを看破した金英龍は、あらかじめ準備しておいた劇薬(砒素と言われている)を飲んで自殺した。

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