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植民地支配の罪科を反省をもしない日本(人)は、暴力が加えられてもかまわない対象だ

(中央日報 2003/02/24)

文富軾(ムン・ブシク)/『当代批評』編集委員

東京、憂鬱な旅−冷笑と沈黙の間で

雨は降ったり止んだりしていた。到着した日からずっとだ。『浮浪者も、東京では傘を準備していた』。数年前、東京で留学生活を送ったある詩人の詩に登場する文章だ。

私は今、東京の繁華街、新宿駅からそう遠くない、ある客室の窓から、雨に濡れた通りを見下ろしている。今回で3度目となるこの都市での数日間、私は静かに降り続けるこの雨の中、知人に会うため都心のあちこちを移動した。雨のせいだろうか。旅が終わろうとする今、私の心は極めて憂鬱で、重苦しい。

一昨年の1月、日本で留学していた韓国人学生が東京のある地下鉄駅で線路に落ちた日本人客を助けようと体を投げ、死亡した時、日本列島はこの「義の心を持った韓国人」の話で溢れていた。昨年初夏、6月のワールドカップ(W杯)は過去半世紀の屈折を乗り越え、ソウルと東京を同時に歓喜の中で一体化させかのように見えた。

東京をはじめ、日本の各都市で溢れていた赤いシャツの歓声を思い起こせば、少なくともこれまで韓国(人)と日本(人)が互いに対立してきた方式と態度にある転換が起こり始めたという感じを持たせたのも事実だ。

そして、2002年9月17日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と日本の両国首脳は国交正常化交渉の再開を本格化した。金正日(キム・ジョンイル)総書記と小泉純一郎首相の平壌(ピョンヤン)会談は、冷戦と分断構図の中、50年間も敵視してきた両国が、脱冷戦の段階へと進入するという希望混じりの予測を生み出しもした。

しかし、そのような明るい色彩の期待と展望は、今も依然として有効なのかと、どんよりと曇った午後、東京のとある地下鉄駅の構内の隅に立ち、私は自分に侘しい気持ちで聞き返していた。

電車の中、人々の頭の上で揺れている週刊誌の広告版には、馴染みの人物の写真が貼られていた。「朝鮮民主主義人民共和国」の金正日総書記兼国防委員長。イエローペーパーに近い週刊誌が報じる人民服姿のこの北朝鮮最高(絶対)権力者を、今、電車内の日本人たちはどのような視線で眺めているのだろうか。

ここに来て、鮮明に感じ取れたのは、もはや金総書記は日本の一般の人々にとって、彼らの首相の隣に座って外交を論ずる相手国家の首班ではないということだ。

北朝鮮による日本人拉致を公式確認した平壌会談以降数カ月間、日本全域では金正日総書記と北朝鮮に対する憤怒と非難が殺到した。そして、北朝鮮工作員によって拉致され、20年以上を北朝鮮に抑留され、10月15日に日本に帰還した(一時帰国した)日本人5人と、すでに北朝鮮で死亡している人々の話で溢れかえった。

テレビをつけ、ニュースを見てみると、依然として金正日総書記と北朝鮮は最高のニュースメーカーだ。変わったことと言えば、激しい怒りと非難が徐々に減り、冷笑と嘲笑いに変わったことだ。

そして、核とミサイル、拉致と不審船、ひいては飢えた難民で、隣国の平穏を脅かす狂信と野蛮の国家として北朝鮮のイメージを描いている。その一方で、日本人たちは過去自分らの国が行った植民地支配によって、韓半島の人々が受けた被害や苦痛に対する記憶を、またそれに伴う倫理的、現実的義務を便利にも再び忘却の向こうへと投げ捨ててしまった。

「片目の憤怒」。ドイツの某日刊紙はこのような日本の現象を、こう定義した。

「もし、北朝鮮が最悪の国家だという事実が、異論の余地もなく証明されたとしても、それによって日本がたった1ミリたりとも善に近付いたことにはならない」とし、「他者に悪を投影し、自分を正当化しようとすることは、かえって自分を堕落させるだけ」という日本知識人社会の一部の憂慮は適している。

しかし、日本の“左派”や“進歩派”、“市民派”の大多数はこれまで北朝鮮の抑圧的な体制が抱えている問題の重大性を見て見ぬふりをすることで、今日の不均衡な現実に対する批判的介入のタイミングと説得力を失ってしまった。

日本人拉致を認め、謝罪した金総書記の“大胆な告白”の直後、これまで北朝鮮政権と友好的な関係を保ってきた社民党(旧社会党)は、自分らの過ちについて公式謝罪する記者会見を開いた。

在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)機関紙「朝鮮新報」も、日本人拉致問題に対する同媒体の誤報を認め、異例の謝罪のコラムを掲載した。

長い沈黙と黙認に対する“計算書”を処理しなければならないのは彼らだけではない。某在日作家は、もはや過去の日本と韓半島の関係を語る上で、日本人が謙虚になること望むことさえ不可能になったと嘆いた。

さらに、平壌会談で日本と北朝鮮の首脳は、「植民地過去の克服」という課題を、経済協力の形で清算することで合意している。“民族の論理”という枠組みの中で、批判を躊躇っていた彼らは、もはや自分らの目の前で、金正日総書記がその民族の苦痛や記憶を横領するのを目撃しているのだ。

今、この文章の最後の部分を書き足している私は、ここ韓国にいる。海の向こうの日本列島とは様相は違っているものの、いや、この地こそ、さらに深刻な冷笑と沈黙だけが存在していることを、私は知っている。

日本社会が拉致問題で沸き立っているのに比べ、韓国社会が見せる静けさに近い奇異な沈黙には、2つの屈折した認識が存在する。その一つは「植民地支配の罪科を反省をもしない日本(人)は、暴力が加えられてもかまわない対象だ」という意識(または無意識)だ。

「対南工作のためには、敵対国家の構成員の人生は蹂躙され、道具にしてもかまわない」と考える北朝鮮権力の拉致論理や、南北が核で手を組み、日本を攻撃することを想像する粗悪な小説がベストセラーになるこの社会のある流れは、植民支配を受けた人々の記憶が応報の論理へと進むのを放置してきた現実の反映だ。

もう一つは、分裂した冷戦意識だ。日本人拉致問題を体制競争の論理に基づいて、北朝鮮批判の材料にする“保守(?)”の論理や、北朝鮮批判(権力に対する批判さえも)は統一にプラスにならないと考えてきた“進歩(?)”の態度は、もはや両方とも問題視しなければならない。

私たちの中に存在するこのような「内的冷戦」の論理や態度は、個人の人間的苦痛や被害は、体制と“民族の理解”に比べ後れているものとして見なすよう、密かに強制してきたためだ。

冷戦論理にせよ、統一論理にせよ、過剰に規範化した論理によって強要された沈黙の中には、独裁時代には「連座制」などの苦痛で、統一を掲げた時代には「和解の足かせ」や「煩わしい存在」として扱われ、無視されてきた人々の苦痛が積み重なっている。

南北双方の権力から監視を受けて生きて来た「越南・北」家族、“進歩”は無視し、“保守”だけが占有してきた「拉北者」家族、敵対的分断の消耗品として扱われた「北・南派工作員」らの苦しみは、それの一部だ。

夢多き日本の若者が、13歳の少女が、ある日突然消えてしまった新潟の海辺を撮影した写真を見入る。人々の人生と命が、本当にとんでもない理由で消えてしまった海は、この国の中にも無数に存在する。私たちの質問は、このような暴力の現場に、まず投げかけられるべきだ。

冷戦と分断が作り出した暴力の現場がうまく思い浮かばないのなら、非武装地帯(DMZ)や共同警備区域(JSA)を頭に描けば良い。権力はどのような方法で、人々を暴力の遂行者にしてしまうのか。実は平凡な人だったこれらの人々を、彼らは何の目的で拉致し、殺害し、またそれを自分らの中で合理化するのか。

海辺を歩く、名も知らない日本人を拉致した工作員の内面で作動したコードは“統一課業”だった。

暴力の現場でこのコードが実行者の内で葛藤を起こさせ、誰もが加害者の立場に立つ可能性のある分断の構図の中、私たちがこのコードを解体する言葉を持つこと、私はこれが“脱・分断”の始まりであると信じる。

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