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考察 安企部(KCIA)の対日マスコミ工作

(朝鮮新報 1998/04/27)

昨年12月の韓国大統領選挙時に行われた、いわゆる「北風工作」と言われる、金大中候補を落選させるための国家安全企画部(安企部)の大がかりな政治謀略工作が暴露され、前安企部長の逮捕にまで発展している。これは何も国内に限ったことではない。日本での親韓派人脈構築のため、朴正煕の時代から猛烈な対日工作が展開されてきた。その歴史的経緯を見る。

◇朴正煕政権の対日工作の目的

@日本の対韓支持政策の実効性の確保・日韓協力体制の強化
A日本各界の親韓勢力の拡大・反韓勢力の切り崩し
B日本マスコミの親韓化
C在日朝鮮人の間での親韓勢力の拡大・反韓勢力の破壊

ここでは主に Bの対マスコミ工作について見る。朴政権のマスコミ工作は早くから進められてきたが、1973年に起きた金大中拉致事件を機に露骨化した。その主な狙いは、朴政権に不利な報道を規制し、世論を親韓国・反共和国に向かわせることだった。

当時、日本の政・財・マスコミ界すべてにわたり対日工作を担当したのは、72年から政務担当無任所長官となった李秉禧。ソウル―東京間を足繁く往来し「日本担当大臣」と呼ばれたほどの人物で、とくに日本ではマスコミ工作を中心に行った。KCIAが創立されるやソウル支部長として暗躍した情報工作のベテランである。

◇マスコミ工作の手法

@招待懐柔・買収
A恫喝・威嚇

―ソウル特派員の逮捕・追放、支局閉鎖の脅し
―駐日大使館や公報館、民団などによる、気に入らない報道に対する組織的抗議、威嚇
―読者に対する脅し

これらの手法が巧みに使い分けられ、効果を増大させた。初期には、もっぱら恫喝・威嚇作戦に重点が置かれたが、言論面での日韓癒着が構造化されるにつれ、次第に懐柔・買収の比重が増大。反論掲載から反共謀略記事の流布、朴政権賛美、業績PR、日韓親善強調へと変化した。

◇具体的な工作内容

1)指示文書に基づく工作

事前に日本マスコミの実情、動向を調査、分析した指示文書を作成、それにもとづいた工作を展開した。

―74年7月、駐日大使館公報官室が「業務現況」を作成。日本の政治動向ならびに言論動向について、とくに主要新聞の編集方針や内容、各社の編集幹部の政治的立場や傾向などを詳しく分析。記事の内容が反韓的か親韓的かに基準が置かれた。

・対韓報道姿勢についての分析

@対韓報道姿勢においては、1973年の「金大中事件」以後の釈然としない違和感が持続されている。
A韓国に対しては批判に偏って、北韓に対しては発表そのままを報道する傾向が目立っている。
B略
C商業紙ではセンセーショナリズムを追求する反面、政治的立場にあっては編集チームは相対的に「左派」に偏っているとみられる。

・主要メディア各社別動向の項

@朝日、読売に対する評価が厳しく、毎日を評価。
A産経は「韓国を理解する姿勢が最も目立っている」と高く評価し、日経も 「客観的報道に比較的透徹している」と分析。

―74年5月29日付の在外公館長あて金東柞外務部長官発信の「反韓国的リスト」は、日米を中心に文化人、言論人を「反韓国行為の内容と不純度」に従いA、B、Cに分け、それぞれの対応策を指示。相手によって「入国の拒否、禁止」「冷遇、制限支援」「積極的支援で順化」などの対応策を定めていた。

2)招待作戦

前述のような方針に沿って、段階的なソウル招待作戦を展開し、懐柔に務めた。

―「日韓問題シリーズ1―腐敗する政治 機構と人脈」(朝鮮統一問題研究会編)によると、「76年2月5日の日韓議員連盟合同幹事会(東京)で、韓国側の崔永x議員は、「…韓日議連で日本の現論陣を正式に招待しましたが、総数156名になります。その内訳は、朝日17、毎日6、読売4、サンケイ(現産経)10、日経3、NHK4、NET(現テレビ朝日)3、NTV7、フジTV5、共同7、TBS2、時事2、毎日放送2、その他84人です。韓国を訪問された5千人余りの人も、ジャーナリストの人々も韓国を理解し、報道の偏向も少しは良くなったのではないかと自負しており、努力すれば効果があると思っております」と、朴政権の懐柔策が成果を上げている点を自負する発言をしている。また、朴貞子議員も、朴政権が朝鮮総聯を対象に続けている「在日僑胞故郷訪問」には「朝日、読売、サンケイの有名紙が協力してくれました」と謝意を表した。在日朝鮮人の分裂工作、「二つの朝鮮」政策として意図的に展開されていた「故郷訪問」に、日本のマスコミが一役買っていた。これは朴政権のもう一つの狙いであったと言える。

―「これがKCIAだ」(在日朝鮮民主法律家協会編)によると、75年6月頃には、大阪府警詰の各紙記者が、民団大阪本部の招待で全費用招待側負担の「観光旅行」にでかけている。当時、朴正煕狙撃事件で日本のマスコミが、事件の裏で暗躍していたKCIAに狙いを定め、謀略事件として追及していることへの「対策」として計画されたとされる。

こうした結果、韓国政府に対する報道記事の表現がやわらげられる→韓国批判の報道・記事が激減、姿を消す→韓国政府のパブリシティや礼讃記事が活発に登場するという図式が生まれた。

3)民団を利用した工作

KCIAのコントロールのもとに、民団は対日マスコミ工作を最重要課題の一つとして推進した。「日韓問題シリーズ1…」によると、「日本マスコミ偏向報道是正」のための指針では、@民団は組織をあげて宣伝と接触を深めて、韓国が反共のとりでであり「臨戦体制下にあることを認識させる A組織内に 「日本マスコミ対策委員会」を設置し予算にマスコミ対策費を組む Bその中、モニターをおいて、その都度の記事に対し「抗議および賛成を即時に判断」し、行動に移す。行動には「親韓報道=好ましい報道に対する賞賛の電話」や「反韓=偏向報道に対する組織的行動」「不買運動」などがある C統一日報や民団機関紙、その他の宣伝紙・誌を親韓団体を活用して普及させる D「韓国の実情を認識」させるために日本人記者や教員、学生などの訪韓勧誘を積極的に行う――などと列記され、これに沿って、懐柔・脅迫工作が展開されたと見てよい。

4)ソウル特派員の利用

金大中拉致事件(73年)などで、日本のマスコミの間で韓国に対する批判が強まる中、李秉禧(政務担当無任所長官)が対日マスコミ工作のために目をつけたのが、新聞5社、通信2社、テレビ4社のソウル特派員で、彼らを利用することであった。

―「これがKCIAだ」によると、当時、読売新聞は「金大中事件はKCIAの仕業」と大きく報道したため、ソウル特派員が追放され、支局も閉鎖されていた。そこで李はAのT特派員を秘かに工作し、東京でA紙の首脳と会談する段取りを依頼。T特派員はその要請を受け入れ、極秘のうちに東京に飛んだ。T記者の帰国は社内でも秘密にされた。

T特派員は社の首脳陣に「韓国」側の意向を説明、会談に応ずるよう進言した。その結果であるかどうかは判明しないが、東京のある料亭で李とA紙首脳陣との会談が行われた。

席上、李がA紙首脳陣に要請したことは、日本マスコミの「報道変更是正問題」である。彼は、日本の新聞がなぜ「韓国の悪口ばかり書き、北朝鮮の悪口を書かないのか、なぜ朴政権だけを悪者にするのか」と不平をもらし、「韓国の悪口を書くなら北朝鮮の悪口も書いてこそ、新聞の公平さが保持される」と主張し、「北朝鮮の悪口を書かないなら韓国の悪口も書かないでほしい、それが公平というものだ」とまくしたてた。

李とA紙首脳会談の話は、その2、3日後にKCIA要員により、ソウルの各特派員に耳打ちされた。そして彼らは甘言と脅迫をもってA紙に右へ習えするよう働きかけた。M紙のF特派員は東京での社首脳との会談の根回しのために帰国し、やがてほとんどの社の首脳が東京で李との会談の場を持つことになったという。これらの会談で話し合われたのはA紙首脳と話し合われたのとほぼ同じ内容であった。

5)進歩派知識人たちへの工作

―70年代半ば頃から朴政権は「世界」や朝日新聞を含め日本のマスコミ全体に対し、脅迫から懐柔政策に転向。かなり大掛かりな工作がこの頃から始まったとされる。それについて「金大中政権の浮上と新しい南北関係」(鄭敬謨、「粒」第27号・98年2月21日)に詳しい記述があるので引用する。この文章によると、鄭氏は朝日新聞74年1月30日付夕刊に掲載された「韓国の改憲運動と緊急措置」と題した文章で、「維新憲法」の撤廃を求める張俊河氏の運動 (改憲請願百万人運動)を抑えるために、朴正煕が発布した大統領緊急措置 (第1号)を糾弾した。これについて、2月4日、韓国文化公報省は、名指しで鄭氏を「親共分子」と非難し、その記事を掲載した朝日新聞に対しては、韓国への輸入禁止措置を取らざるを得ないと発表し、実行した。以下は「金大中政権…」の抜粋である。

Q 『世界』とか「朝日新聞」とかの日本の強力なマスコミをバックにしているとしか見えない鄭敬謨の存在にKCIAが驚愕し鄭敬謨つぶしの工作にとりかかったとしてもおかしくないですね。

鄭 朝日新聞の輸入を止めてみたら、逆に困ったのは朴政権だったらしく、禁輸措置をすぐ解除されたのですが、それと同時に単に鄭敬謨の動きを封じ込めるにとどまらず、日本のマスコミ全体を自分の方になびかせるという方向に政策そのものを変えたように思われるのです。かなり大仕掛けの工作があの直後から始まったのは、今から振り返ってみるとはっきりしていますね。この工作にはその一環として鄭敬謨に対する人格的中傷をもって、例えば安江氏(注・岩波書店前社長の安江良介氏、98年1月死去)のような日本の知識人との仲を裂くと同時に、安江氏自身を含めて安江氏周辺の著名人たちを自分の方に取り込むということが重要な項目として含まれていたと思うのです。

Q もしそのような工作をはっきりと気づいていられたとすれば、それにかかわった工作員がいたと思うのですが、具体的にどのような人物であったのか、差支えなければ言っていただけませんか。

鄭 …こういった広範な工作を背後で操っていたのが、朴正煕の飲み友達であり、その交遊関係にあやかってか当時の言論弾圧を一手に引き受けて異常なまでの権力を振るっていた鮮于(朝鮮日報主筆)であったこと、日本における「反国家団体」の動きを綿密に内査しない、これを「首魁」金大中氏に結びつける工作を担当していた一人が鮮于の直系の子分であり、おそらくその功績のためでありましょうが、一介の新聞記者(朝鮮日報東京特派員)から一足跳びに、駐日公使、統一院長官に垂直急上昇をとげることになる許文道であったこと。もう一人は本国の独裁政権からの迫害を逃れて亡命したという触れこみで日本にやってきてから約20年間、安江氏を始め安江氏の周辺にいる日本の著名な知識人を取りこむ工作に専念した人物が、鮮于とは同郷(平安北道定州)の出身であり、鮮于が生前「わが刎頸(ふんけい)の友」なりと称して親密さを誇りにしてやまなかった池明観(注・翰林大学校翰林科学院日本学研究所所長)であったこと、そして許文道並びに池明観は、ひそかに接触を保ちながら連携プレイを演じていたことぐらいはこの時点で明らかにしておいてもよいでしょう。

鄭 …池明観氏の「刎頸の友」鮮于氏が死んだときのことは、この間の安江氏の葬儀との関連で一言書いておかざるをえません。鮮于氏が突然息を引きとったあと、月刊「朝鮮」(86・4号)は韓国人の友人としてはただ1人の代表として池明観氏の哀切極まりない弔辞を掲載しました(もう1人は日本の友人を代表した吉岡忍氏)。

この間の青山斎場における安江氏の葬儀のときも、池明観氏は故人の韓国人友人を代表して嗚咽を抑えながら感動的な弔辞をのべたのですが、そのことが私にはよく分からないのです。金大中氏を憎悪し殺意を抱いていた鮮于が死んだとき流した彼の涙と、安江氏にとってはまさに刎頸の友であり、そして2人の長い間の共闘の末、やっとのこと大統領に選ばれた金大中氏を代弁する形で、なぜもう少し長生きをしてくれなかったのかと安江氏に語りかけながら流した彼の涙と、どっちがほんとうの涙だったのか。2つのうち1つはウソの涙なんです。

―進歩派知識人、マスコミ人士への工作で度々名前が上がっていたのが、自称梨花女子大卒、日本語による韓国の翻訳小説掲載の季刊誌「韓国文芸」の編集兼発行人の全玉淑という女性であった。彼女は70年代始めから朴正煕暗殺(79年10月)の前年頃まで日本で暗躍した。「PR雑誌の編集というのは表向き。実は朴政権の放った対日工作員の一人でKCIA要員とも見られ」(赤旗76・3・23)ており、「KCIAの撃った玉」(粒第27号)。民間人レベルでの対日文化人・作家工作を担当し、日本の対韓世論を好転させるための文化誌の発行を受け持った。(「これがKCIAだ」)。粒第27号によると、「韓国文芸」は編集も印刷もすべて韓国でなされた上で日本に持ち込まれ、大部分は無料で、これはという人に配布されていた。そのことから鄭敬謨氏は「この雑誌の真の発行人が誰であり、その目的が何であるかぐらいは問わずとも知りうる自明のもの」(粒第27号)と指摘する。

74年半ば頃、当時獄中にあった詩人金芝河や李泳禧教授の「無二の親友」だという触れ込みで東京に現れては日本の中堅、非中堅のジャーナリストを酒席にはべらせ、とかく華やいだ噂をまき散らした。流暢な日本語を操り濃艶という形容詞に不足はない魅力的な女性であったらしい。(粒第27号)

「これがKCIAだ」によると、ソウルの特派員の間では72年頃から、彼女のことが話題になっていた。全は政府高官から聞いた話や金芝河の獄中生活、彼の創作活動などについて、いろいろな情報を流した。

最初は貴重な情報だとその話を聞いていた記者たちも、彼女の話が自称金芝河の同情者であり、熱烈なファンにしては、あまりにもおかしいと気付き始めた。金芝河氏が共産主義者であるとか、反政府活動のために北側の援助をもらっていたというたぐいのガセネタを流し、それを信じさせようと説得するようになってきたからだ。

ソウルの日本人特派員の間で「全玉淑はどうもおかしい」ということになり、それ以後はまともに話を聞かない記者たちが多くなった。そのうちに全は、ソウルだけでなく日本にも姿をあらわすようになった。日本で「韓国」問題に関心を持つ文化人、作家、学者にかたっぱしから電話をかけ、「韓国の話をうかがいたい」とか、「小説の翻訳を頼みたい」といっては接近する。その誘いをことわっても、しつこく電話をかけてくるという。

粒第27号によると、(朴正煕が射殺される前あたりの年)全玉淑の動きをこと細かく知りうる立場にあった友人のM氏から鄭敬謨氏に電話がかかってきた。電話のメッセージは全氏が任務を終えて帰国することになったが、帰国にあたって彼女が残した最後の言葉が「あとは安江氏と鄭敬謨をこませばよい」であったと言うことだった。安江氏に対する「すけこまし」工作に失敗したまま全は韓国に戻り、戻ってから「シネ21」とかいう映画雑誌を出しているとされた。全の工作がその後どのような展開を見せたかは、李恢成氏(作家)の紀行文「死者と生者の市」(『文学界』96・5号)を読むと明らかだという。

「金浦空港に着いた李恢成氏は、…ソウル市に入り、自分が呼ばれたあるシンポジウムの会場に入ったのですが、そこにはちゃんと「エミレ21」金玉淑女史、つまり「シネ21」全玉淑女史が待ちかまえて彼を迎えてくれたのです。…何故か李恢成氏はこの紀行文にはっきりとは書いていないのですが、晴れがましくも彼も呼ばれたソウルでのこのシンポジウムは車明岳教授、つまり翰林大学日本学研究所長の池明観氏と韓国クリスチャン・アカデミーの主催によるもので(95年2月)、これには安江氏が坂本義和氏と大江健三郎氏を誘っていっしょに参加したのでした。…全玉淑女史からバトン・タッチされた池明観氏が、彼女の能力ではなしえなかったことを成就したという点においては、彼の工作は成功したと言えなくもないでしょう。」(粒第27号)

全玉淑は町井久之(鄭建永)の愛人とされる(「これがKCIAだ」)。東亜相互企業グループのボス、町井は元暴力団東声会会長で、都内に高級レストランやクラブを持っているほか、釜関フェリーに出資し、在日韓国人で朴大統領に会うことのできる数少ない男の1人。日本の右翼の大物、児玉誉士夫(故人)とは兄弟分。その児玉は小佐野賢治(故人・国際興業社主)と関係が深く、さらに、小佐野は趙重勲(大韓航空社長)とコンビを組んでいた。

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