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「やらない善よりやる偽善」の異常性について

あえて「やらない善よりやる偽善」を異常と言うことにする。なぜなら「情けは人の為ならず」の意味が誤解されているように、「やらない善よりやる偽善」もまた誤解・誤用されつつあるように思うからである。要するに、誤解・誤用批判をしたいのである。

まず「やらない善よりやる偽善」という標語のおかしさを考えなければならない。そもそも善には、やらない善などない。人間にとって、時間は有限であり、誰もが1日24時間しか使えない。善意でボランティアをしてる者は、目の前の課題に限りある時間を割くのであり、それ以外のことはできない。被災地にボランティアに行きたいと思っても、今まで面倒を見て来たホームレスを見捨てて行けるはずがない。善意ある者は、既に何かしらやっている。善意なき者だけが、やっていないのだ。だからやらない善などないのである。

「やらない善よりやる偽善」は、UDがん研究プロジェクトへの参加の呼びかけにの標語として誕生した(ようである)。そしてUDがん研究プロジェクトは、インターネットに繋がれた個人のPCの余力スペックを掻き集めて、スパコンの代用にするというものである。すなわちPCの余力スペックを提供しさえすればUDがん研究が進展するのであって、善意の有無は問われない。ここで重要なのは、「偽善で世界一になる(貢献度世界一になるのが目的で、UDがん研究参加は手段に過ぎない)」ことが、自分の偽善性の正当化になっていないことだ。もし積極的に「やらない善よりやる偽善」を肯定するならば、「善意者の手が回らないところに、偽善者が手を貸してやろう」という意味においてではないだろうか?

被災地ボランティアでよく問題になるが、新潟県中越地震でも、ボランティアの中に、飯が不味いという輩がやはり出たと聞いている。こういう輩が偽善で悪いかと言い繕うならば、「やらない善よりやる偽善」を掲げる者にとって迷惑だろう。「やらない善よりやる偽善」を掲げる者は、自分が偽善であることを自覚するがゆえに、自分の楽しみを捨ててまで何かをすることはない。悪い言い方をするならば、連続ドラマが見れないからという理由でボランティアには行かず、募金程度でお茶を濁して終わりなのだ。例え行くにしても、自己の偽善性の自覚ゆえに、不味い飯に我慢できるかどうかを考えて行くはずなのだ。

「やらない善よりやる偽善」は、「善だなんて言ったって、手が足りなきゃどうしようもねえだろ。仕方ねえから、俺たち偽善者が手を貸してやるよ」と、偽善者であると胸を張って言うところにその良さがある。善意者であるかのように振る舞って、偽善者と言われて偽善で悪いかと言い繕う醜さはない。そして我慢できないボランティア活動に出かけることもない。「やらない善よりやる偽善」は、やりたくないことはやらないのである。

ここでまとめておくと「やらない善よりやる偽善」は、(1)善意の補完として偽善的行為であり、(2)やりたくないことはやらないという自己満足であり、(3)それゆえ自己の偽善性を自覚している、のである。

しかしイラクの人質事件以降、自衛隊派遣反対派でもある人質擁護派が、おかしな使い方を始めている。例えば、人質になった高遠さんを擁護するにあたって「やらない善よりやる偽善」だというのである。だが高遠さんは、善意でボランティア活動をしているのではなかったのか? 高遠さんが「自分は偽善でボランティアをしている」といつ言ったのか? 偽善者のレッテルを貼られた者が、自分を正当化しているだけではないのか?

ところで「善・偽善」の問題は非常に難しい問題だ。何をもって善というのか? 何をもって偽善というのか? 今、地球上に飢餓で苦しんでいるたくさんの人がいる。そして飢餓が戦争の原因になっていることも少なくない。食糧問題の専門家によれば、肉食をやめれば、飼料用の穀物消費分を食用に転用できるので、飢餓を無くすことができるという(それぞれ1カロリー肥るのに、豚は5カロリーの穀物、牛は10カロリーの穀物を食べなければならない)。さて、飢餓で苦しんでいる人を救うために、肉食をやめようという人はどれだけいるのだろうか? 極端に言えば、肉を食べている人は、皆、偽善者なのだ。反戦活動家に、肉食をやめようという者がいるのだろうか?

マザー・テレサの凄いところは、インドの貧困層とともに寝起きし、共に食事をしたところにある。一人だけ贅沢をするということは考えなかったのだ。ノーベル平和賞を受賞した際に、「晩餐会はいりません。そのお金を貧しい人たちのためにお使い下さい」と晩餐会を断ったのは、貧しい人のことを思うのなら、何故、あなた方は贅沢をしているのかと言いたかったのではないか?

マザー・テレサを偽善と切り捨てることができないのは、マザー・テレサがあえて不利益を被ったからである。やり方次第では、ダイアナのように着飾ることも、美味しい食事をすることもできたかもしれない。その全てを捨てたからこそ、マザー・テレサの善意を否定することができないのだ。思えば釈尊も、全てを捨てて悟りを開いた。ある禅僧は、得るは迷い、捨てるは悟りと言っている。贅沢を捨てるというところに、宗教を超えた共通性があるのかもしれない。

大抵の人間は、マザー・テレサにはなれないし、着飾って美味しいものを食べている。それなら「やらない善よりやる偽善」を掲げて、最初から偽善者として胸を張れと言いたい。偽善だと批判されても、その通りだよねと言ってのけて欲しい。そうでなければ偽善者にもなれないのではないか?

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