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イラク人質事件を考える〜「悪人礼賛」の薦め

イラクの人質事件を契機に、自己責任論が噴出した。人質の家族の政治性が問われたのだ。しかし家族の政治性よりも、マスコミの人質を擁護する論調に嫌悪感を覚える。善意の活動だから自己責任を問うのはおかしいというのだ。どう考えても、この論調はおかしい。

とはいえ、どうも口にし難いとうより、自分の考えを言語化し難い。どう言語化しようかと考えていたところ、ふと中野好夫の「悪人礼賛」を思い出した。

「善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい」。

なるほど。彼らは、動機が善意であれば、責任を負わなくてよいという考えに取り付かれているのだ。だから自己責任論を批判するのだ。

「善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。……ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである」。

彼ら三名がイラクに行ったのも、政府の避難勧告という警戒が利かなかったのだ。ストリートチルドレンのため、劣化ウラン弾の調査のため、ジャーナリストの本分のため、という彼らの善意が、ルールを無視させ、イラクへと向かわせたのだ。

「開き直って詰問すると、彼らはさも待っていましたとでもいわんばかりに、切々、咄々としてその善意を語り、純情を披瀝する。驚いたことに、途端にぼくは、結果であるところの不当な被害を、黙々として忍ばなければならぬばかりか、おまけに底知れぬ彼らの善意に対し、逆にぼくは深く一揖して、深甚な感謝をさえ示さなげればならぬという、まことに奇怪な義務を員っていることを発見する。驚くべき錦の御旗なのだ」。

帰国後の記者会見で、嬉々として自分たちの善意と情熱を語ったのは、まさにこういうことなのだろう。そして自己責任論を批判するマスコミは、彼らの底知れぬ善意と情熱に対して、深く一揖して、深甚な感謝をさえ示さなげればならないという奇怪な義務を果たしているのだろう。

しかし、こうした善意を擁護するマスコミもまた、ルールなき無法者なのだ。

思えば、欧米のマスコミは悪意ある報道をする。中立性を売り物にするのではなく、偏向性(党派性)を売り物にしている。

「悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ」。

欧米のマスコミは、どの立場による報道なのかが明確であり、一定のルールに従った報道をする。新聞・TVの偏向性(党派性)を理解した上で情報に接してさえいれば、その新聞・TVから正確な情報を得ることができる。

されば世のすべてのマスコミは悪人と偽善者になるべし!


悪人礼賛

(『悪人礼賛』ちくま文庫)

中野好夫

ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との2つにつきる。

考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決っているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない。そこでまずぼくの方で、彼らの悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。むしろ多くの場合、彼らは彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。

それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。

かりにぼくがある不当の迷惑を蒙ったと仮定する。開き直って詰問すると、彼らはさも待っていましたとでもいわんばかりに、切々、咄々としてその善意を語り、純情を披瀝する。驚いたことに、途端にぼくは、結果であるところの不当な被害を、黙々として忍ばなければならぬばかりか、おまけに底知れぬ彼らの善意に対し、逆にぼくは深く一揖して、深甚な感謝をさえ示さなげればならぬという、まことに奇怪な義務を員っていることを発見する。驚くべき錦の御旗なのだ。もしそれ純情にいたっては、世には人間40を過ぎ、50を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。だが、40を越えた純情などというのは、ばくにはほとんど精神的奇形[ルビ:モーローン。註]としか思えないのである。

註:原語はmoron。ギリシャ語の「愚か」に由来し、わがiMac内臓の小学館ランダムハウス辞書には、「【1】 (一般に)愚か者,ばか,まぬけ.【2】心理「軽度精神薄弱者. 【3】性的変質者.」とある。

それにしても世上、なんと善意、純情の売り物の夥しいことか。ひそかに思うに、ぼくはオセロとともに天国にあるのは、その退屈さ加減を想像しただけでもたまらぬが、それに反してイアゴーとともにある地獄の日々は、それこそ最も新鮮な、尽きることを知らぬ知的エンジョイメントの連続なのではあるまいか。

善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである。

その意味からいえば、ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝であるとさえ信じている。狡知とか、奸知とか、権謀とか、術数とかは、およそ世の道学的価値観念からしては評判の悪いものであるが、むしろぼくはこれらマキアベリズムの名とともに連想される一切の観念は、それによって欺かれる愚かな善人さえいなくなれば、すべてこれ得難い美徳だとさえ思っているのだが、どうだろうか。

友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。

「世にも美しい相互間の崇敬によって結ばれた」といわれるニ−チェとワーグナーの友惰が、僅々数年にしてはやくも無残な破綻を見たということも、ぼくにはむしろ最初からの当然結果だとさえ思えるのだ。伯牙に対する鍾子期の伝説的友情が、前者の人間全体に対するそれではなく、単に琴における伯牙の技に対する知音としてだげで伝えられているのは幸いである。伯牙という奴は馬鹿であるが、あの琴の技だけはなんとしても絶品だという、もしそうした根拠の上にあの友情が成立していたのであれば、ぼくなどむしろほとんど考えられる限りの理想的な友情だったのではないかとの思いがする。

友情とは、相手の人間に対する9分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る1分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。10分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。金はいらぬ、名誉はいらぬ、自分はただ無欲でしてと、こんな大それた言葉を軽々しく口にできる人間ほど、ぼくをしてアクビを催させる存在はない。

それに反して、金が好きで、女が好きで、名誉心が強くて、利得になることならなんでもする、という人たちほど、ぼくは付合いやすい人間を知らぬのだ。第一、サバサバしていて気持がよい。安心して付き合える。金が好きでも、ぼくに金さえなければ取られる心配はないし、女が好きでも、ぼくが男である限り迷惑を蒙るおそれはない。名誉心が強ければ、どこかよそでそれを掴んでくれればよいのだし、利得になることならどんなことでもするといっても、ぼくに利権さえなければ一切は風馬牛である。これならば常に淡々として、君子の交りができるからである。

金がいらぬという男は怖ろしい。名誉がいらぬという男も怖ろしい。無私、無欲、滅私奉公などという人間にいたっては、ぼくは逸早くおぞ気をふるって、厳重な警戒を怠らぬようにしてきている。いいかえれば、この種の人間は何をしでかすかわからぬからである。しかも情ないことに、そうした警戒をしておいて、後になってよかったと思うことはあっても、後悔したなどということは一度もない。

近来のぼくは偽善者として悪名高いそうである。だが、もしさいわいにしてそれが真実ならば、ぼくは非常に嬉しいと思っている。ぼく年来の念願だった偽善修業も、ようやく齢知命に近づいて、ほぼそこまで到達しえたかと思うと、いささかもって嬉しいのである。

景岳橋本左内でないが、ぼくもまた15にして稚心を去ることを念願とした。そしてさらに20代以来は、いかにして偽善者となり、いかにして悪人となるかに、苦心修業に努めて来たからである。それにもかかわらず、ぼく自身では今日なお時に、無意識に、ぼくの純情や善意がぼくを裏切り、思わぬぶざまな道化踊りを演じるのを、修業の未熟と密かに深く恥じるところだっただげに、この定評、いささかぼくを満足させてくれるのだ。

もっとも、これはなにもぼくだけが1人悪人となり、偽善者たることを念願するのではない。ぼくはむしろ世上1人でも多くの聡明なる悪人、偽善者の増加することを、どれだけ希求しているかしれぬのである。理想をいえば、もしこの世界に1人として善意の善人はいなくなり、1人の純情の成人小児もいなくなれば、人生はどんなに楽しいものであろうか、考えるだけでも胸のときめきを覚えるのだ。その時こそは誰1人、不当、不法なルール外の迷惑を蒙るものはなく、すべて整然たるルールをまもるフェアプレーのみの行われる世界となるだろうからである。

されば世のすべての悪人と偽善者との上に祝福あれ!

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